屋上を自らの庭として掌握する彼は、実はとても子どもっぽいのだということを、綱吉は最近になってようやく知った。
何せ屋上は見晴らしがいい。そこに寝転がって空を見ていれば、遠くに飛行機が飛んでいく。
この町は、ここから車で二時間という距離にある基地と空港とのど真ん中に位置している。
そこを代わる代わる飛んでいく飛行機を眺めるのが彼の密かな楽しみらしい。
そして、ツバメが低く飛べば雨だといって先んじて風紀委員の部屋に篭って日がな一日本を読んでいるか、屋内で暴れている生徒を出会いがしらに蹴り飛ばして自らが嵐となる。
したがって、並盛中学には「雲雀が屋内で暴れていると雨が降る」という言い伝えがあってもよさそうなものだが、なにせ彼は機嫌が悪ければ天気の良し悪しに関わらず暴れだすので、果たしてなぜ彼がここにいるのかという理由をまず本人が明らかにしない限り、そんなことは一般生徒に知る由もないのだ。
連休前日の夜、唐突に沢田家の電話のベルが鳴った。電話を取るのは、綱吉の役目だ。
はい沢田です、と受話器を手にすると、電話口からは聞き慣れた声が聞こえてきた。
『綱吉? 明日から暇でしょ。朝の始発に乗るからそれに間に合うように駅に来て。着替えは二日分くらいで』
いくら見知った声だからといって名乗りくらいあげればいいのに、と口を挟む隙もなく、ついでに猛獣の潜む藪をつつく精神も持ち合わせていない。
「暇ってわけじゃないんですが」
しかしここで泣き寝入りしては相手のいいようにばかりされてしまうことを、綱吉はここ数ヶ月で学んでいる。
この暴君の横暴さはとどまることを知らないから、嫌なことはすっぱりと切り落とさなければとても身体がひとつでは対応しきれない。
『どうせゲームやって寝て、またゲームやって寝るだけでしょ。そんなことに時間を費やすより随分マシで楽しいところだよ。じゃあ明日の朝、五時過ぎには出るから、それまでに駅に来ること。おやすみ』
その決死の反撃も簡単にいなされて、がちゃりと一方的に通話を切られてしまった。ちょっと待てと声をかける隙もない。
この回線はもう、どこにも繋がってはいない。どれだけ話しかけようと、もう雲雀に声は届かない。舌を巻く早業にして荒業。
綱吉は受話器を持ったまま呆然と中空を見つめることでしか、自分の未来を慰める術を知らなかった。
それが今回のことの始まりだ。
過去に呼び出しを拒否したこともあったが、翌日の反応が気になってろくに休めなかったり、呼び出しに応じなかったことに一度たりとも言及されずそれが逆に恐ろしかったりと、散々な結果だったのだ。ここで渋々出て行くかすっぽかすか、従ったほうの後味がいいのは明々白々。
故に覚悟はもう決めてある。
ここは、出て行く他に選択肢などないのだと。
少しばかり歯噛みしてから受話器を置くと早々に支度を済ませて眠りに着いた。
そして迎えた朝。
大きめのスポーツバッグに着替えを詰めて、日の出とほぼ同時に、駅の階段を上りきる。
黒く汚れたリノリウムの階段は、綱吉の心に少しだけ影を落とす。折角の休日なのに早起きをしたからとか、寝不足だからとか、そういった陰鬱さではない。
原因は別にあるのだ。それはもう、一度気づいてしまったら塗り替えられない違和感として後ろ髪を引き続けている。
その不安への否定に全力を費やして、それも最後の一段を強く踏みつけて気分を塗り替える。
顔を上げた先、駅の構内には、まばらな人影。休日の早朝でも、足早に改札の向こう側へと消えていく人はやはり存在する。
その人の流れの中、券売機の前に立つ、暗い色で整えられた私服姿の雲雀を見つけると、少しだけ歩みを早くして寄っていく。
「おはようございます」
「おはよう」
簡素な棚に並ぶとりどりの旅行チラシをなびかせて、綱吉は足を止めた。
雲雀は一瞬だけ視線を絡ませてから、綱吉のバッグより少し大きめの黒いボストンバッグを足元から拾い上げる。そのついでというように腕時計に視線を落として、
「思ったより早かったね」
と、殊勝にもそんなことを言った。
今までは考えられなかった労いであろう言動に目を丸くする綱吉とは対照的に、言った本人はどことなく嬉しそうな表情で。
よいしょ、と背負うような形でバッグを肩に乗せると、じゃあ行こう、と二人分の切符を綱吉に示しただけで、行き先も告げずに一歩を踏み出す。
彼のそういったところをいちいち気にしていてはキリがないので、すっと大きく息を吸って、大人しくその後ろに続いて改札を抜けた。
あまり、電車を利用して出かけるという習慣がない綱吉には、番線も行き先の地名にも全く心当たりがない。
それを知ってか知らずか、彼にしてはゆっくりとした足取りで、目的のホームへの階段を下りていく。その歩みに迷いや目移りはみられない。それほど利用頻度が高そうには見えないのだが、付き合いを深くして半年、それでも雲雀の素性は未だ靄の中。
何人か、足早に駆け下りていく階段の数段上から見る雲雀の後姿は、今日ばかりは角が落ちて丸く、そして柔らかく見える。
緩やかに静寂を覚ますような朝日が、遠くビルの間から、ホームに差し込んでいて、そのせいかと、一瞬考えた。
けれども朝日のそれとは違う、雲雀の本来の柔らかさが表層に浮かんでいるのだと、綱吉は判断した。
僅かに足が止まる。
彼は振り返らない。
足元では、階段に張り付いた黒が陰鬱を振りまいている。
一足先にホームへと降り立った雲雀が、停滞する綱吉を見上げる。僅かに朝日の赤みが頬を斜めに照らし出す。
それに吸い込まれるように、ぎこちなく階段を下りていく。
頭上から降りてくる、列車の到来を告げるアナウンス。
見知らぬ土地の名前を読み上げるそれだけが、だだっ広いコンクリートに響き渡り、淀んだ朝の空気を攪拌させていく。
綱吉は、行き先をまだ知らない。