沢田綱吉が、と連絡を貰って僕は酷く驚いた。
寄越した人物に一番驚いたというのがこの感情に上乗せされているのだろうけれど、一大事だったことには違いない。
よく響くテノールは受話器越しにも僕の背をぞっと撫でる。空想の武器を片手に、空想の戦いに臨場していた。それを断ち切るように、乱暴に通話を切られて僕はやっと現実に帰還する。
後々から考えてみれば、これは僕の正常性バイアスが成し遂げた奇跡的な逃避行為だったのだとも言える。
僕は急いで彼の眠る病室まで駆けつけた。愚直ともいえる素直さで、これが罠だったりサプライズだったり、はたまたただのいたずらか、そんな些細なことであれば慌てるわけも無い。
気分の悪くなるほどの白々しさの室内に、呼吸器をつけられ電気の心音を響かせ、彼はそこで眠っていた。
よく眠ったように死んでいる、という表現をフィクションで見るが、それは現実を見ることが出来なかった人間の理想が作り出した虚像でしかない。
眠りと死は似て非なるものだ。そこには絶対的な違いが存在する。
この時彼はまだ、とても深い夢を見ていた。
夢の中にどんどんと沈んでいく彼の傍らで、かつて戦場を共に駆け抜けた腹心が疲れた顔をして、粗末なパイプ椅子に腰掛けていた。
自分の存在には気づいているのだろうが、考えたくないのだろう。
沢田綱吉という名前だった魂が、いまやどこをさまよっているのか、彼は肉体から乖離した意識で必死に探し回っている。
僕は自分が肩で息をしながらここまで来たことを、酷い徒労だとすら感じていた。
だって彼は眠り続けている。それは覆しようも無い事実だ。どれだけ膨大な暴力を用意しようと、彼の眠りを覚ますことは既に不可能に近い。ここは世界で一番堅牢な、難攻不落の城に成り果てている。
白い布団を乗せられて眠っている。白い包帯は左腕から肩口、果ては首まで巻かれていた。その包帯が途切れた先には、彼の成長して骨ばった頬ですら、真っ白なガーゼに覆われている。
この沢田綱吉という人間は、自分の記憶では余程黒い服のほうが着慣れていたはずなのに、白で縁取られ分割された彼の姿は途轍もなく美しかった。
幸せそうな眠りですら、あった。
僕は成す術もなく、その場に立ち尽くして彼が眠りという深海へ沈没していく様子を黙って見ているしかなかった。
ここでは僕はひとつの群衆の中の、更に何も手を出せない傍観者に過ぎない。
けれども、人は脳で知覚する。
僕はこの時、世界の色をひとつ、失っていた。
狭いはずの一人用の病室が、歪曲して空間把握の能力を侵食するように狂わせていく。
目に痛い白色に足元から喰われて行く。
獄寺隼人と僕は既に彼の世界の一部として取り込まれていく。美術品に命が宿ったような彼の腹心も、既に世界を囲む部品のひとつでしかない。
そのなんと罪深いことか。一人の人間は美と知と愛と、それから沢山のものをその一身に受け、それらすべてを全うするがためにその身を滅ぼしかけている。
目を覆いたくなるような空虚ばかりの世界の中で、僕はどうにかこの場から逃げ出そうと思考を動かし始める。
ここから抜け出しさえすれば、そして彼を忘れさえすれば。いいや、それよりも、もう考えずに生きて行きたい。
「一雨、来そうですね」
遠くの空に見つけた暗雲を見据えながらそう言うと、ありきたりな言葉に返事するより彼の魂を探したいのか、或いは単純にもう崩れてしまったのか、腹心は返事をせずに、頭を垂れてしまった。
もう来ないものを待ち続ける彼の腹心の姿は、これ以上なく滑稽で、少しばかり憧れてしまうほど、純粋にも思えた。
自分にはもうその純粋さは残っていない。
リノリウムの床がまた真っ白な天上を照り返し、柔らかく死を招くような電灯の連なる廊下に出る。ここはとても厳かに沢山のものが終わっているのだと、ただ空気だけでどこまでも理解できた。
一度、エントランスとは逆側のバルコニーから空を仰いだ。沢田綱吉という男には似合いの、空に近い病室。
そしてやっと見切りをつけて半回転すると、その先には黒からにじんで零れ落ちたような男が立ちはだかっていた。
誰よりも早く、彼のことを知らせてきたあの、電話のテノール。
「沢田が死ぬ理由は君が知っているはずなんだけれど」
「それは言いがかりだ」
だって雲雀恭弥は言ったのだ。
『沢田綱吉が、事故にあった』
バスと危険物を乗せたトラックとの衝突事故。激しい炎上と有毒ガスに包まれてあえぐ乗客。
その中の一人に、沢田綱吉が居たのだと。
「まだ彼は生き続ける。成人でも体の表面の40%が火傷を負えば高確率で死に至る。でもあれはまだ生きている」
それも穏やかに。雲雀が喉の奥に押し込んだ言葉を僕は確かに聞いた。
そうだ、いくら白い包帯で包もうとあれは火傷の傷だ。ただれた皮膚があの下に眠っている。
熱に苛まれたまま、彼はまだ生きつづけている。
でもその理由を僕は知らない。知っているのなら、今すぐたたき起こすことだって不可能じゃない。けれども、知らねばどうにもならない。
「君しか居ない」
「僕には何もない」
このプライドの高い男の懇願を、初めて耳にした。
けれどもそれでも僕には何もできなかった。
立ちはだかる肩を手で退かして、僕はこの大きな墓の中からの脱出を試みる。
「沢田がまだ生きる理由は、君が持ってる」
遠くで低く轟く音がする。
雨とどちらが早いか、床を蹴る速度を上げて、進み続ける。
遠くから聞こえるそれは、紛れもなく春雷であった。