家の真上を過ぎる航空機の音が時報代わりになっている。
古い家屋がその鉄の重厚な音圧に圧倒され、軋みながら揺れて世界に順応しようとする。悲鳴じみたその些細なことさえ、エンジンに震える空気には勝てないというのに。
何もなかった。
目の前で希望と絶望、未来と過去をない交ぜにした存在が消える瞬間を目にしてから、僕はもう何も手にすることができないと見切りをつけた。
それはとても容易かったが、同時に生きるということを非常に困難にもした。
今までは灼熱の溶岩を飲み干してでも生きて生きて、生き抜いてきた。どうあっても自らの存在だけは許容し続け、絶やそうとするものの息の根を潰してきた。
或いはその代償なのかも知れない。
僕は沢田綱吉がこの世を去ってから、生きることをやめた。
目的を失った身体はそれでも、自らの意思に反してさまざまなことを訴え続ける。
時には欲求を越えたただの飢えに対する答えとして、他人の傷や死をも求めた。
そんなときは古びて色の剥げ、ところどころがささくれ立った畳の上に寝転がり、無防備に開け放った縁側の窓から、遠くにある空をじっと見つめることにしている。今のように。
そうして、空間に見えない道路を見出す飛行機たちが行き交うスクランブル交差点を、僕は延々と見つめて、その無意味さに苛立ちが移行する頃、漸く自らの存在にまで視界を戻すことが出来る。
最近はそんな作業も段々と長引いている。別段、それが何らかの妨げになるわけではないのだが、どうしてもあの全身で感じる命の潰える瞬間を求めるたびに、臓腑の最奥から這い上がるものがある。それに僕はいつか喰い尽されてしまうのではないかと考えてしまう。
真実のところ、僕は無理に生きることをやめて、世界の流れに身を任せているつもりでも、自らの恐怖心すら支配できないでいた。
だからこそこんな場所に居るのだ。
恐怖が湧き上がるのは、沢田綱吉の死の瞬間。その想起。
一定の音を刻む電子の音がその間隔を段々と長くする。長く長く、彼の心音を騙って、狭い室内を支配する。
そしてテクノロジーで増幅された彼の心拍数が低下するにつれて、彼の身体に宿っていた淡く色づく魂がもう戻らないと離別する幻視さえ見えるようだった。
このときばかりは、場に集まった全員が息を呑んで、堅く己を律していた。誰か一人が泣き出して縋ってしまえば、それに引きずられてしまうことは言わずとも理解していた。
痛切なその瞬間に比例するように、個室に張られたブラインドの向こう側では入梅を宣言された世界が、暗澹たる雲に覆われてぱたりぱたりと遠い地面で少しずつ侵食されている。
たった一人。やはり左半身を白く分断されている彼は、ただの一人で、眠りへの落下を永続させようと歩み続けている。
最早ここにいる誰にも彼の歩みを止めることなど出来ず、そして存外にも、あの春雷の日以降に彼が僕を問いただすこともなかった。
最後の一拍を刻むそのとき、僕は心の底から湧き上がる明確な恐怖の記憶を脳に刻んだ。
何度も何度も彼は僕の空想の視界の中で同じように死を迎える。
本来二度と来ないはずのその恐怖は、けれども褪せることなく僕の全身を操って、視神経から胃の細部までを硬直させる。
そして僕は柱時計の振り子の音に気がつく。いつの間にか空を屠りながら飛んでいた航空機は消え、一時の静寂が訪れる。太陽は未だ外気圏の遥か先の、気の遠くなるような遠距離から天空を嬲り続けている。
時計の指す時間などこの家ではほとんどが意味を成さないが、胃が隙間を訴え始めたので形式的に数字を読み取る。
逆さまの盤上では2の文字が短針に抉られている。
ふっと人の気配がしたところで、がらんがらんと古びた家の呼び鈴が鳴る。
まさかこの家に尋ね人とは、と珍しく思いながら戸を開けると、真っ黒に焼けた青年が僕の偽名を呼び、
「お届け物を預かってます」
と、ひとつの箱を僕に差し出した。いやはや、その綺麗に日焼けのした肌は、境界の曖昧な遠くの空と海と、間近の畑とあぜ道を背景にと、現実にしては出来すぎなほどのパーツだった。
そんなことを考えながら手早くサインをしている隙に、青年が言う。
「随分古めかしい呼び鈴ですね」
「ああ……電子音が少し、苦手で」
気まぐれでそう答えながら書き終えた受領書を手渡すと、彼は人懐こく笑って、
「いいですね。祖母の家を思い出します」
予想だにしなかったその返答に僕が答えあぐねていると、青年は先ほどより控えめな笑みで僕の目を見て、「では」と一礼して、また次の配達へと発ってしまった。
狂う調子もここに来てからはないのだが、なぜだか居心地が悪い。
差出人の名は、これまた偽名ではあったが、今は亡き彼がわりと好きだと言った名前からの届け物だった。
なるべく何も考えないように僕はその箱を開けようと努力する。しかしその努力もむなしく、僕の肺腑からは呼吸という機能が一時的にそげ落とされる。
渡されたときにその重さに驚いたが、その中身が想像と違わず、僅かに肩の力が抜ける。
それは、彼が生前に使っていた一丁の拳銃だった。
誰が送ったのかはわからないが、形見分けのつもりだろう。
その美しいフォルムの名はベレッタM92SB。
僕は迷わず、その銃口を自らのこめかみへと持ち上げた。
そして死の瞬間を夢想する。
けれども、ここにも沢田綱吉の幻影はつきまとう。
彼の拡張された心拍音が終わることのない全音符に成り下がる瞬間を僕は確かに覚えている。
そしてその自分の姿を咎めるように、アナクロな黒電話がけたたましく鳴り響く。
前の住人の置き土産だと気まぐれでそのままにしていたのだが、極稀にこうして電話が鳴るのだ。
右手に銃を携えたまま、僕は立ち上がり、緩慢な動作で八畳の居間を抜けて板張りの廊下に降り立つ。
その間もなり続ける黒電話の受話器を左手で持ち上げて耳まで運ぶと、向こうは静寂の一言に尽きていた。
何度出ても無言だとは分かっているのだが、鳴らしっぱなしなのも癪に障る。
顔も見えない、年齢も性別も、果ては人間かもわからないその受話器の向こうの不明の存在とのまがい物のコミュニケイションだけが、僕の生存を永らえさせていた。
それは毎回、一分ほどで終わりを告げる。受話器の向こうからがちゃりという音についで同じ音を一定の間隔で刻む電子音が聞こえかけたところで、僕は受話器を乱暴に置いた。
すり足で重い身体を引きずって、再び居間に戻る。
居間と寝室はそれぞれ八畳間が隣り合い、小さいキッチンが居間の対面に位置している。更にその隣に今は小さな倉庫になっている四畳ほどの土間、そして寝室に寄り添うような風呂とトイレ、という簡素な平屋は、僕にはうってつけの家だ。玄関から一本伸びる廊下を、第一印象で気に入った。そこに置き去りにされた黒電話も。
するりと居間に入り、几帳面に時を刻み続ける柱時計のすぐそばの、カレンダーを気まぐれにめくる。
今日の日付が何日なのか、そんなことは僕には関係がなかったから、一月からそれはめくられることはなかった。
けれども、ぱらりぱらりと気まぐれでめくった今、漸く、遠く離れたこんな地で、あまりに遅すぎる事実を思い出してしまった。
彼、沢田綱吉が生きていた理由を、僕は思い出してしまった。
ああ……ため息すら出てこない。また呼吸が忘れ去られ、恐怖に足首を掴まれる。
そうだ、これからは涼しい時間帯になる。
ならばもう一度、空を眺めながら寝ようと思った。
空腹ももう少し進めれば、多少だが夕飯の味も美味くなる。
倒れるように畳に腰を降ろし、右手の銃をもう一度持ち上げて、銃口を頭蓋へ向ける。
「ばーん」
そして僕はばたりと大の字で畳の上に転がる。
色が褪せてもなお、それは律儀にイグサのにおいを漂わせる。
次に飛行機が空を食いに来るのは、あとどのくらい先なのだろう。